世界の間違いやすい首都④【ベトナム】

ベトナムの首都はハノイ

 ホーチミンではない。ベトナム南部のホーチミンはベトナム最大の都市であるが首都ではない。首都は北部のハノイであり、ホーチミンに次ぐベトナム第2の都市である。ホーチミンもハノイも東南アジア有数の都市である。

 ベトナムは北部・中部・南部に分けられ、それぞれが異なった歴史・文化を有している。ハノイは北部の都市であり、ホーチミンは南部の都市である。

 ハノイのある北部は中国と接していて、中国の王朝に支配された期間も長く、古くから中国の影響を強く受けてきた地域である。唐の時代にはハノイに、南方支配の拠点である安南都護府が置かれた。その後、11世紀にベトナム北部を支配した李朝は首都をハノイに置いた。19世紀後半にベトナムがフランスに占領されて以降のフランス領インドシナの時代においても中心地として栄えた。

 その後、北部は第二次世界大戦(太平洋戦争)中に日本軍の占領下に入り、戦後に日本軍が撤退するとベトナム北部は社会主義国のベトナム民主共和国(北ベトナム)として独立した。しかし、ベトナム民主共和国は独立に反対したフランスと第一次インドシナ戦争(1946~1954年)を戦うことになり、一時はフランス軍にハノイを占領されるも奪還し、さらに北ベトナムが勝利した。そしてハノイが首都となった。

 資本主義(アメリカ)と社会主義(ソ連)の代理戦争となったベトナム戦争(1955~1975年)では、北ベトナムはソ連や中国の支援を受けながらアメリカ側のベトナム共和国(南ベトナム)と戦い、結果的にアメリカ軍と南ベトナムを退け泥沼化した戦争に勝利した。1976年には南北ベトナム統一を果たし、現在の「ベトナム社会主義共和国」に改称し、首都はハノイに留め置かれた。

 一方、ホーチミンのある南部はカンボジアに接し、カンボジアとともに扶南(1~7世紀)という東南アジア最古の国家を形成していたこともあった。扶南は仏教とヒンドゥー教の影響を強く受けていた。7世紀にはカンボジアのクメール人の国家である真臘(しんろう)に征服された。

 現在のホーチミンはかつて「プレイノコール」や「ザーディン」という名前で呼ばれていたが、次第に「サイゴン」と呼ばれるようになり、それが一般化した。フランスがベトナムを占領していた時代には、サイゴンは開港し、フランス領インドシナの下で発展した。サイゴンは「東洋のパリ」や「極東の真珠」とも呼ばれた。

 「ホーチミン」の名は、ベトナム民主共和国初代国家主席でありベトナム建国の父であるホー・チ・ミンに由来する。日本軍が撤退した戦後にベトナム南部はサイゴンに首都を置くベトナム共和国(南ベトナム)として独立したが、先述の通り、南ベトナムはベトナム戦争で北ベトナムに敗戦し、いわゆる「サイゴン陥落」後の1976年に南北ベトナムが統一され、ベトナム共産党政府によってサイゴンは「ホーチミン」に改名された。

 ホーチミンがベトナム最大の都市である要因としては、ベトナム南部のホーチミンが歴史的にフランスの支配(フランス領インドシナ 1887~1954年)とアメリカの支配(ベトナム共和国 1955~1975年)を経験し両国による積極的な資本投下で経済を発展させたことなどがある。

→19世紀・20世紀のベトナムの歴史を、フランスやアメリカや中国といった大国との戦争という観点から見てみよう。

→世界史における「国家の統一」とはどのような意味での「統一」であるか?「民族」や「国家」という概念について深く吟味しながら考えてみよう。国家の分裂状態とはどのような状態か?ということについても考えてみよう。また、「国家の統一」の例としてはどのようなものがあるか?